その研究、どこが面白いの?

 

 

研究という世界に身をおく人なら誰でも一度は、自分あるいは周りの人がやっている研究テーマに対して「それのどこが面白いの?」といった質問を発したことがあるのではないかと想像します。この問いの裏にはまず「研究とは面白いものであるべきだ」という1つの価値観があります。また「どんな研究だったら面白いのか?」という判断をくだすためには、さらに一定の価値観が必要となります。これらの価値観は、研究分野のちがい、おかれた立場、人生観などのさまざまな要因によって異なっており、一様に「研究とは面白くなければいけない」あるいは「これこれこういう研究でなければ面白くない」などと言い切ることは不可能です。しかしそれでもやはり、研究をすすめる上では、この質問をときどき自分に向けて発するのは大切なことだと私は考えます。なぜならこの質問には、単に「価値観の問題」では片づけることのできない、研究をすすめる上での姿勢の問題も含まれていると思うからです。

 

生態学あるいは進化学と一口に言っても、その研究材料は多岐にわたっています。樹木、草本、昆虫、魚、カエル、トカゲ、鳥、ネコ、ヒト、はてはプランクトンや細菌、ウイルスにいたるまで、ありとあらゆる自然界でうごめくものたちが、我々の研究の対象となりえます。これらの生物は食べ物から生活場所、行動にいたるまでさまざまに異なるので、1つ1つの生物種についてその生きざまを調べるだけでも、大変な労力です。それゆえ、研究をすすめるにあたってたとえば「○○という生物の交尾期における△△行動の頻度をしらべる(なんのこっちゃ)」といった、ある特定の分類群における特定の問題に1つずつ答えようとするのは、他の生物学の分野と同様、生態学あるいは進化学においてもごく普通の手順です。こうした「1つ1つのささやかな発見」が研究者の日常のよろこびであることには、私も異論はありません。

 

しかし一方で、このような断片的事実を集積してゆくことだけでは、いつまでたっても本当の意味での科学の研究とはならない、というのが私の考えです。著書『地理生態学』の序文でマッカーサーものべているとおり、科学がめざすべき最終目標は、単なる事実の集積ではなく、繰り返し現れるパターンを探し求め、かつそのパターンが生じるしくみあるいは原理を明らかにすることだと思うからです。この最終目標の下では、事実の集積は目的ではなく、手段の1つでしかありません。我々のやっている生態学あるいは進化学も、その例外ではないと思います。ですから、上記の研究課題は、たとえば

 

1)雌による雄のえり好み、あるいは雌をめぐる雄間の競争といった性淘汰の産物として、動物では多様な配偶行動が進化した。この中でもとくに目をひくユニークなものとして、△△行動がある。この行動は、他の配偶行動とは□□という点において大きく異なっており、その成立条件はきわめて厳しいと予想される。にもかかわらず広くこの行動が異なる分類群で何度も進化してきたという証拠がある。これはなぜかを明らかにするのは進化生態学の長年にわたる大きな課題の1つである。

 

2)この△△という行動パターンが生じてきた進化的背景の理解を深めるためには、まず△△行動の頻度が条件によってどのように変化するかを明らかにする必要がある。

 

3)しかし△△行動は土中など隠れた場所で行われるケースがほとんどで観察がむずかしいため、その頻度などの定量的なデータがほとんど集められてこなかった。その点、○○という生物は水中で交尾をおこなうため、水槽内で飼育すれば△△行動を詳細に観察できる。

 

4)そこで本研究では、「○○という生物の交尾期における△△行動の頻度をしらべる」

 

・・・といったように、より大きな目標の達成に向けた研究の1ステップとして意義づけされることがのぞましいのです。言いかえれば我々は、○○という生物がどんな風に行動しているか、という当面の関心だけでなく、それを明らかにすることが、これまで生態学あるいは進化学があつかってきた問題のどの部分の理解にどんなかたちで光をあてるのか、どんな進歩をもたらすのか、といったことも考える必要があるということです。

 

私の言うことを頭では漠然と理解できても、では具体的にはどうすればいいのか、というとわからない人もいるでしょう。これは昔ある先輩がおっしゃっていたことですが、たとえば将来、生態学あるいは進化学の一般的な教科書をひらいたとき、自分の研究成果が「どのページのどの項目でどういう文脈においてどんな風に」紹介されるのか、ということをイメージしてみればよいのではないかと思います。10年後、20年後にも一般的な教科書に取りあげてもらえるような面白くて意義のある研究をするには今どんなことをするべきか、というのが、私自身、自分の研究方向をきめるときの1つの指針となっています(達成されているかどうかはともかく)。研究をすすめる際には、手元の対象に即してその詳細を調べあげるだけでなく、ときおり顔をあげてこういう「遠く」を見さだめる姿勢が必要だと私は思うのです。

 

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私がまだ学部生の頃、とある実習の一環として、研究室のセミナーで研究内容を発表する機会がありました。この実習で私は、先生からやりなさいと言われた「ある特定のDNA領域を挟み込んだプラスミド(注)の構築」ということをやっていました。私にとっては、プラスミドの構築こそが実習の目標で、それ以外の何かもっと大きな目標、学問的意義のことなどは全く考えていませんでした。そこで素直に、研究計画書の最初に「本研究の目的:○○を持つプラスミドを作ること」とだけ書きました。するとセミナーの後、1人の先輩が私に向かってこんなことを言いました。

 

「ここに書いてあるのは目的じゃない、手段だよ。これが目的だとしたら、おまえの研究、ちっとも面白くない」

 

当時の私には先輩が何を言いたいのかさっぱりわかりませんでしたが、そのとき自分が感じた驚きと疑問は、今でもよく覚えています。「研究の面白さ」ということについて考えるとき、いつも思い出す情景の1つです。

 

 

おわり

 

 

(注)プラスミド:細胞内にあって核以外の細胞質中のDNA。自律的に増殖し、親から子へ伝えられるが、細胞の生存には関係しない。染色体DNA以外の細胞質DNAに対して用いられる名称。遺伝子工学では、細菌のこれに特定の遺伝子DNAを組み込んでベクターとして利用している。<三省堂・大辞林より>