なぜ研究するのか?

 

 

私の研究にかぎらず自然科学の研究成果は、すぐさまそれが人の役に立つというようなわかりやすい形では示されることが少なく「そんなことを調べて何になるのか?」という質問をされることがよくあります。こんなとき、こらえ性のない私はつい「科学者はドラえもんの手先じゃない!」と叫びたい衝動にかられます。たとえば「地球は太陽のまわりを回っているんだよ」と聞かされて「そんな知識がいったい私たちの生活向上に役立つの?」なんて尋ねるのは、あまりに夢がないとは思いませんか。しかし、そうは言っても「なぜ研究するの?」という質問に、科学者自身がちゃんと答えられないのでは心もとありません。そんなわけで、私もときどきこの質問を自分に向けて発することがあります。

 

少し大げさかつ理想論的になりますが、私が思うに、もし科学の存在意義というものがあるとすれば、それは「文化、宗教、風習や利害関係などの異なる人々が世界のしくみ、あり方について語るとき、唯一の共通基盤(あるいは知識)を提供できる」というものです。言いかえれば、科学の知識は人間の価値観や利害とは独立に客観的な事実として存在しうるからこそ、人類全体の共有財産としての価値がある、ということです。物事の理解の共通基盤あるいはスタート地点なくしては、人は話しあうことはおろか、話しあうべき問題がどこにあるのかを正しく認識することすらできません。だからこそ我々は、この複雑な世界のしくみをまず科学の言葉でできるだけくわしく説明、理解しようとしているのです。そしてそこには説明あるいは理解できないことが未だにたくさん残っています。人々が考えている以上に、世の中は思いもよらないこと、わからないことであふれているのです。応用への道が明らかな研究分野については、人やお金が集まりやすいし、研究の進展も早いでしょう。しかし、何に応用できるかわかりにくいからと言って、その分野の発展を遅らせるのは問題です。長い目で見た人間社会への貢献を考えるなら、アンバランスな科学の発展とその誤用は、かえって弊害をうむことにもなりかねません。そうした事態を避けるためにも、幅の広い研究分野の進歩が必要です。

 

もちろん我々を研究に駆り立てるのは、まず「知りたい」という純粋な好奇心によるところが大きいでしょう。そのことについて言い訳するつもりはありません。ただ私が思うのは、我々は自分の興味を満足させるだけのために、いたずらにエネルギーを浪費しているのではないということです。こうした「知的共有財産」を生み出す活動は目立たぬ形でも、人々の生活、人類の歴史に確実に反映されてゆくのです。

 

私は、我々が日々おこなっている地道な研究の成果が、たとえささやかでも、それを学ぶ人の自然の見方、生きものに対する考え方を変えてくれるようなものであって欲しい、また自分でもそういう研究をめざしたい、と思っています。人間は自分の知っている範囲内でしか物事を考えられません。私の役割は、のび太君の夢をかなえることではなく、そうした人々にとっての知識の地平を少しでも広げてゆくことだと信じています。

 

おわり