思考法としての口頭発表

 

 

我々研究者には、学会やセミナーで自分の研究成果を発表しなければならないことが、しばしばあります。このような口頭でおこなわれるプレゼンテーションは、ややもすると原著論文(英語で国際誌に発表される論文)を書くことにくらべ、研究者の間ですら軽視されることがあります。そのせいかどうかわかりませんが、学会でもセミナーでも、わかりづらい口頭発表をして平然としている人がかなり見受けられるのは残念なことです。もちろん情報を受け取る側にとっては、何の審査も受けず発表者の思うがままにつくられた口頭発表の内容など、その厳密さ、信頼度において原著論文にはるかに劣るものでしょう。またプレゼンテーションという言葉には、販売戦略的なイメージもつきまといます。そのような考えから、しょせん研究の宣伝でしかない口頭発表に多大なエネルギーを費やすなど、真面目な研究者のやることではないと見下す人が多いのかもしれません。しかし、それは大変な間違いです。なぜなら、口頭発表の最大の恩恵は聞く側でなくむしろ発表者の側に、そして発表時(本番)ではなくむしろ準備段階でもたらされるものだからです。つまり、聞く側の反応をあらかじめ想定して発表を準備することで、発表する側がまず恩恵を受けられるわけです。

 

ではその恩恵とは何でしょうか。それはどのようにもたらされるのでしょうか。その問いに答える前に、まず私が考える「わかりやすい口頭発表のつくりかたの手順とポイント」を以下に簡単に説明します。

 

1)発表時間にあわせて大まかなスライドの配分を考える。いきなりスライドを作りはじめるのではなく、たとえば12分の発表なら12コマ漫画のようなコマ割りを紙に描いてみる。ポイントは、分岐のない川のように1本の流れで話が進行すること、この流れを阻害する要素があればけずり、根幹だけを残すこと。長い発表なら、川がどこまで流れたのか、話の途中で現在位置を示すコマも挿入する。

 

2)一コマごとに台本を書く(スライドはまだ作らない)。一コマあたり最長1分くらいで話せる内容にする。ポイントは、発表全体をつうじて「これだけは聴衆に覚えて帰ってほしいメッセージ」(英語で言うところの"take-homemessage")は何かをよく見きわめること。大事な結果を出すたびに、結果の意味とともに、このメッセージを簡潔なフレーズでくり返す。そして発表の最後のまとめの部分で、同じフレーズをもう一度繰り返す。

 

3)台本作りが終わったら、ようやくスライドを作る。台本の内容を補足するというよりは、むしろ台本に書いてある内容そのものを視覚化するように作るのがポイント。

 

4)台本とスライドを推敲する。視覚情報(スライド)と聴覚情報(台本)の表現、フレーズをできるだけ統一する。スライドも台本もできるだけ簡潔にすることを心がける。とくに、スライドに入れられない情報を、欲張って口頭だけで付け加えたりしない。そういう情報はたいてい余分な部分であることが多いので、削ることを検討する。

 

上の説明を読んでみるとわかるように、発表の準備とは大ざっぱにたとえて言えば「大きな湖に向けて流れる1本の川をつくる」作業です。聴衆を1人残らず湖まで無事に運ぶことのできる川を整えるには、どうしたらよいか。それには何よりもまず、発表者自身が、正しい目的地(湖)はどこにあるのかを把握している必要があります。発表をつうじて一番伝えたいメッセージは何なのかをきちんと説明できるようになることが、良い発表者になるための第一歩です。次に、目的地がきまったら、頭の中に入っているさまざまな知識、研究結果とその解釈などを正しい順番にならべ、論理を1本の筋でつなげる作業が必要です。正しい順序で並べることができなければ、川の流れは阻害され、聴衆はどちらに進むべきかを見失うことになります。そしてさらに、途中のカーブや分岐点をできるだけ少なくして流れをスムーズにし、かつ目的地がよく見えるよう障害を取り払い、視界を広くし、難所では目的地を再確認し、論理の飛躍(段差、急カーブ)があれば補強する作業をおこないます。

 

私の説明を聞いて、なんだそんな簡単なことかと思う人もいるでしょう。しかし実際に発表を準備してみると、それがなまやさしい作業でないことがすぐにわかるはずです。目的地を見さだめ、余計な部分を削り、スムーズに流れない箇所を修正するには、自分が研究の全体像をきちんと把握していなければならないからです。私の経験からも言えることですが、これが準備前の段階でできあがっていることはほとんどありません。たとえ口頭発表の内容をすでに論文に書いている場合でも、この作業をやり直さねばならないことがしばしばあります。なぜならプレゼンテーションという点で基本は同じであっても、口頭発表には論文とちがって制限時間があり、また一度過ぎてしまった場所に聴衆が自分の意志で戻ることができないからです。よって口頭発表では「湖に向けてスムーズに流れる1本の川」という基準がずっと厳しさを増すわけです。

 

手順にしたがって話を準備してみると、論理のあいまいさやデータの穴に気づくことがしばしばあります。また、データがたくさんあるようでも、実は一番重要な結果はたった1つの図におさまると判明することもあります。そして何より重要なのは、たくさんの知識やデータに埋もれて見えにくかった最も大切ないくつかのアイデアや結果のポイントが、しっかりと見わたせるようになります。このように、口頭発表の真価は研究の宣伝効果よりもむしろ、その準備段階において、自分のアイデアを研ぎすませ研究の根幹をとらえる手法として威力を発揮する点にある、というのが私の考えです。つまり、口頭発表の準備にかける時間を惜しむということは、自分の研究の最も大切な、かつ最も楽しいプロセス(思考)を放棄するということです。発表がわかりづらいということは、実は本人が研究の大切な部分や意義をよく理解していないことにほかならないのです。自らの研究の論理を鍛え、質を高めるための「思考法」として、研究者は口頭発表をもっと有効に活用するべきだと私は(ちょっと偉そうに)思っています。

 

追記)なお、上記の話はそのままポスター発表にもつうじるものです。ポスターであってもまず口頭発表のように話を作りこんだ上で準備するならば、形式の違いはあっても口頭発表と同様の効果をあげられると思います。また、ポスター発表の大きな利点は聴衆と好きなだけ議論できるということですが、ポスターという発表形式の自由度の高さに甘えて思考の手間を惜しんでしまったら(結果を表にしてのせただけのポスター、あるいは原稿のようにびっしりと文字で埋められたポスターなどはその典型と言えます)、聴衆は内容を理解するのが精一杯で実り多い議論をすることなど不可能でしょう。そういう点からも、発表準備に時間をかけることには大きな意味が出てくるわけです。

 

おわり